羞恥心

中日新聞の文化欄にこんな記事があったとのこと。
筆者は東大教授と名乗ってはいるものの、全編これ思い込みのみで書かれているため、恥ずかしいことこの上ない文章。
ssd先生なら、ここまで豪快な馬鹿は清々しい、と表現するんでしょうね。

題して

「出産時の帝王切開に思う」


 詳細が書かれていないので、何か別の事情があるのかもしれない。だから一般論として述べたいのだが、アメリカなどでは主に医療の効率性のため、すべての出産を帝王切開にしているという。

どこの異次元のアメリカだか知りませんが、少なくとも世間一般的にアメリカと呼ばれている合衆国ではそんなことはありません。高く見積もって帝王切開は20%弱ですね。ちなみに日本は15%弱です。世界で一番高いのは中国で8割くらいとも言われてましたがはっきりしません。明らかに高いのはブラジルです。統計によって差がありますが50%〜70%くらいでしょうか。韓国も結構高くて40%弱です。

しかし、ちょっと調べれば分かること、常識を働かせれば変だと思うはずのことを華麗にスルーしてしまう精神構造はいかがなものでしょうか。

以下、同様の記述が続きます。


赤ん坊の頭蓋骨が割れ目に沿ってずれ、頭部が縮んで子宮を垂直に下りてくるという話を聞いたとき、私は身体がそのような能力を有しているという神秘にいたく感心した。下りてくるのだから重力を利用するわけで、(略)

重力関係ないし。そんなら動物のお産はどうなっちゃうの。でも、助産院当たりだとそういう事いう人いますね。座ってたほうが赤ちゃんが降りてくるからって。ナンセンス。


19世紀までの西欧の出産用のいすを見ると、妊婦は身体を立てて座るようになっている。手術台に寝かせるというのはドイツあたりで始まった医療上の習慣であるらしく、そこには出産を病気の一種と見なそうという考えがある。それは、女性が身体の潜在能力を否定しつつ出産を行うと言うプロセスの始まりであった。

今の分娩台を見たことないんですね。そもそも分娩台でお産をするようになったのは、いかに安全に分娩するかという観点からそうなったまでで、昔通り危険なのがお好みなら分娩椅子でも畳でも結構です。

 私はとある産婦人科医の集まりで講演した際、会場におられた先生方から「会陰をあらかじめ切開しないで出産すると裂けて大変なことになる」、と断定的に言われたことがある。それで「この中に裂けるところを目撃した方はおられるのですか」と尋ねたら、なんと一人もいなかった。教科書に「会陰は切開しないと裂ける」と書いてあり、すべての妊婦に対して切開してしまうので、「裂ける」体験などしたことがないとのことである。

これはスゴイ。会陰切開しないで裂傷を起こしたのを見たことない産婦人科医って(笑)。見てきたように嘘を言うとはこのこと。見たことなけりゃ産婦人科医じゃないとだけ指摘しておきましょう。

けれども長い人類の歴史で、縫合手段もない時期に、出産のたびに会陰が裂けてきたとは想像しがたい。多くの女性はお産の知恵として伝承された技法(深呼吸をし指圧するなど)を用いてきたのであろう。

想像しがたいと言いつつ、妄想するのですね。
昔の分娩は野蛮でした。裂傷が出来ても縫合しないから、出血や創部の感染で命を落とした人がどれくらい多かったことか。

もう疲れてきたから、まとめ。
全て昔のままにやってりゃ素晴らしいお産が出来ると思ってる方はそうすればいいです。
でも現代の周産期医療を否定するなら、お世話にならないでね。尻拭いはゴメンですから。
こういう人が大多数になったら産科医は必要なくなるし、きっと訴訟も激減するでしょうけど。

真面目にお産を考えてる方へ。自然分娩について色々なことをいう人がいますけど、思い込む前にまずちょっと理性を働かせましょう。変?と思うことが多々あるはずです。


もっと捻りを入れた文章にしたかったけど、面倒くさくなったのでストレートにツッコンでしまいました。文章力無いなぁ。


全文を読みたい方、記事は以下に。



「出産時の帝王切開に思う」 松原 隆一郎(東大教授)

 ある女優が40歳で第1子出産したというニュースが最近流れた。高齢にもかかわらず母子ともに無事らしく朗報であったが、このニュースの続きの部分には異様な印象を受けた。予定日より一ヶ月早い出産だったのだが、それは俳優の夫の誕生日に合わせて帝王切開したからだ、と言うのである。


 詳細が書かれていないので、何か別の事情があるのかもしれない。だから一般論として述べたいのだが、アメリカなどでは主に医療の効率性のため、すべての出産を帝王切開にしているという。けれども出産は病気ではなく自然な営みであり、身体が持つ能力で行われうるものだ。赤ん坊の頭蓋骨が割れ目に沿ってずれ、頭部が縮んで子宮を垂直に下りてくるという話を聞いたとき、私は身体がそのような能力を有しているという神秘にいたく感心した。下りてくるのだから重力を利用するわけで、19世紀までの西欧の出産用のいすを見ると、妊婦は身体を立てて座るようになっている。手術台に寝かせるというのはドイツあたりで始まった医療上の習慣であるらしく、そこには出産を病気の一種と見なそうという考えがある。それは、女性が身体の潜在能力を否定しつつ出産を行うと言うプロセスの始まりであった。


 私はとある産婦人科医の集まりで講演した際、会場におられた先生方から「会陰をあらかじめ切開しないで出産すると裂けて大変なことになる」、と断定的に言われたことがある。それで「この中に裂けるところを目撃した方はおられるのですか」と尋ねたら、なんと一人もいなかった。教科書に「会陰は切開しないと裂ける」と書いてあり、すべての妊婦に対して切開してしまうので、「裂ける」体験などしたことがないとのことである。けれども長い人類の歴史で、縫合手段もない時期に、出産のたびに会陰が裂けてきたとは想像しがたい。多くの女性はお産の知恵として伝承された技法(深呼吸をし指圧するなど)を用いてきたのであろう。


 だが、現代の産科の常識では、そのように人類が長年行ってきた営みは例外に属することになったようだ。潜在能力を発揮しなくてすむよう、人工的な手術で肩代わりするのである。帝王切開は、当初は突発的な危険に際して用いられたのだが、突然産気づかれては医師側の仕事からすれば効率が悪く、そちらの都合から普及した。その延長上で、妊婦側に出産時期を選択させるために帝王切開を行うという考え方も出てきたのではないか。
 けれども後一月、母子が体内で会話できるというのは、至福の時でもある。それを失ってまで早産するというのは、もったいない話ではないか。


 それでも、すべての身体に関わる営みが人工的な作業に置き換えられるのなら、一理あるといわねばならない。医師不足の折、医師が定時に帰宅できるよう帝王切開したり(誰もそんなことのために手術してない!)、家族の誕生日が同じであることが家族の和に寄与するものもあるのかもしれない。けれどもどんな手術であれ、最終的には当人の生命が自然治癒する部分に支えられている。身体の自然を乱せば、身体が治癒力を失う可能性も高まると思えるのだが、いかがだろうか。